本書は、中国の「開発学」(development studies)を手がかりに、その設立経緯と言説形成の過程を約三十年間にわたって明らかにすることで、非欧米社会における国際開発の学知の特徴と可能性を考察したものである。
二十一世紀に入って、中国政府は「南南協力」や「一帯一路」構想を打ち出し、国際開発分野における影響力を急速に拡大させている。従来の研究は、中国の地政学的な意図やその施策による経済・社会への影響に関心を寄せてきたのに対して、本書では、そもそも中国において国際開発がどのように学問的に論じられるようになったのかを問う。結論を端的に言うと、「欧米中心」の開発知を批判し、自らの独自性を打ち出そうとする中国の開発学は、一見すると異質な存在ですらある。しかし、その系譜に目を向けると、欧米や日本に共通する経験は少なからず存在し、国際社会の影響がそこに編み込まれている。現在進行中の中国の「開発学づくり」の中身を理解するには、表面に現れる差異だけではなく、その深層にある多様な概念や実践の関係性にも目を向けることが重要である。
知識生産の「脱欧米中心」の機運が高まるなか、本書のより広範な関心は、開発経験を国家のために道具化していくような取り組みに対して、私たちはいかに距離をとり、いかに「より良い生」を自由に思考する場としての開発学を守り切れるのか、というところにある。本書は、その流れ
に立ち向かう中国学界の工夫と葛藤をそのまま示すことを試みた。
ここで示される中国の事例が、国際開発をめぐる知的営みに関心を持つ
日本の読者にとっても一本の新しい補助線になれば幸いである。
はじめに | |
---|---|
序章 | なぜ中国の開発学なのか |
第1節 | 開発言説の新興生産者の登場 |
第2節 | 中国の開発学の生成と変遷を問う |
第3節 | 本書の全体に関わる説明 |
3–1 | 「開発学」という表記 |
3–2 | 本書に通底する視座 |
第4節 | 本書の構成 |
第Ⅰ部 | 背景・課題・方法 |
第1章 | 開発言説の系譜と視点 |
第1節 | 開発と言説 |
第2節 | 開発言説を捉えるための4つの視点 |
2–1 | 言説を作り出す主体:知識の権力性 |
2–2 | 言説の異なる類型:その相克と越境 |
2–3 | 言語の生成と変遷:developmentへ批判的考察 |
2–4 | 現地の実践と言説の関係:取捨の力学 |
第3節 | 欧米における開発学の設立と言説形成 |
3–1 | 欧米における開発学の沿革 |
3–2 | 欧米主導の開発学への批判 |
第4節 | 本書の分析枠組み |
第2章 | 中国の開発学を形づくる要素 |
第1節 | 政治:脅威論を打ち止める研究者の役割 |
1–1 | 中国をめぐるイメージのせめぎあい |
1–2 | 研究者による「話語権」の強化 |
第2節 | 想像:西洋への葛藤に基づく世界像 |
2–1 | 中国の学術的営みを位置づける |
2–2 | 中国の歴史と経験を位置づける |
第3節 | 専門分野:開発研究の国内ブーム |
3–1 | 開発研究に携わる主体の増加 |
3–2 | 専門分野の相対的な位置 |
第4節 | 残された課題と本書の特色 |
4–1 | 先行研究の到達点と課題 |
4–2 | 中国農業大学に着目する意味 |
第3章 | 調査手法と対象 |
第1節 | 歴史研究 |
第2節 | ドキュメント分析 |
2–1 | 中国の開発学の設立と主要な言説 |
2–2 | 日本における開発知識の議論 |
第3節 | 現地調査・インタビュー |
3–1 | 中国雲南省の「H実験」 |
3–2 | 中国貴州省の世銀融資事業 |
3–3 | 中国の対ラオス貧困削減援助事業 |
第Ⅱ部 | 分野の形成 |
第4章 | 「開発学」という名:学知の概念的文脈 |
第1節 | 中国の開発概念の根源を問う |
第2節 | 日中の語彙交流史の成果 |
第3節 | 「開発(*)」の原義と「開発」の受容 |
3–1 | 中国の古典における「開発(*)」の意味 |
3–2 | 日本独自の「開発」文脈の展開 |
3–3 | 近代化のための「富源開発」 |
3–4 | 借用後の「開発(*)」の意味変化 |
第4節 | 中国における開発概念の今日的特徴 |
4–1 | 「発展(**)」の主流化 |
4–2 | 日中の比較から見る「発展(**)」の概念的特徴 |
開発(*)は簡体字 | |
発展(**)は簡体字 | |
第5章 | 中国における開発学の創設者とその開発観 |
第1節 | 開発学設立までの長い前夜 |
第2節 | 農学出身の「開発学の父」 |
第3節 | 西洋に対する抵抗と転向 |
第4節 | 「H実験」に映される開発観 |
4–1 | 変貌するH村 |
4–2 | 現代と伝統を「接ぎ木」する |
4–3 | 批判的思考の場 |
第6章 | 開発学の教育・活動・言説 |
第1節 | 学部の教育・研究活動 |
1–1 | 教科書と学部構成に見る開発学の射程 |
1–2 | 学術的交流:「農政と開発講座」を事例に |
第2節 | 研究者ネットワークの拡大 |
第3節 | 「開発研究ブーム」がもたらしたもの |
3–1 | 中国における開発研究の概観:分野・テーマを中心に |
3–2 | 開発知識に対する国家の公的説明 |
第4節 | 「新開発学」という理論構築の試み |
4–1 | 中国が主体となる言説空間を開く |
4–2 | 中国の独自性に関わる3つの言説 |
第Ⅲ部 | 言説の形成 |
第7章 | 言説①:中国と西洋の対立 |
第1節 | 中国と世銀の関係性の変化 |
第2節 | 賛否両論の世銀・貴州プロジェクト |
1–1 | プロジェクト概観 |
2–2 | 分かれる評価 |
第3節 | 「交渉」による事業の現地化 |
3–1 | 観光と住民参加をめぐる世銀と省政府のせめぎ合い |
3–2 | 計画策定者から現場までの「伝言ゲーム」 |
第4節 | 中国と西洋の対立のはざまに |
第8章 | 言説②:「平行・対等」という中国の自画像 |
第1節 | 中国の対ラオス援助と「ラオス事業」 |
第2節 | 事業現場から見る中国経験 |
2–1 | 経験共有の主役:中国人事業関係者 |
2–2 | 事業管理体制から見る「被援助経験」の共有 |
2–3 | 実施における経験の伝達 |
第3節 | 中国経験に基づく他者理解 |
第4節 | 経験共有の対等性の再考 |
第9章 | 言説③:中国人研究者による日本批判 |
第1節 | 中国から見る日本の国際開発 |
1–1 | 日本のODA概観 |
1–2 | 地域・国別援助の分析 |
1–3 | 非政府アクターの機能 |
1–4 | 中国の援助との比較 |
第2節 | 日本における開発学の生成と特徴 |
2–1 | 戦後復興に伴う海外調査の展開 |
2–2 | 人材育成と知識共有の需要に伴う組織化 |
第3節 | 日本における知識生産の「経験重視」 |
第4節 | 日本へのまなざしの歪み |
終章 | 中国の開発学の特徴と可能性 |
第1節 | 結論:開発学の形成と展開 |
1–1 | 学問分野の設立経緯 |
1–2 | 実践に対する言説の取捨選択 |
第2節 | 開発学という木:地上と地下のコントラスト |
第3節 | 本書の課題と意義 |
おわりに | |
参考文献・資料 | |
索 引 |
汪牧耘 著
『中国開発学序説 - 非欧米社会における学知の形成と展開』
法政大学出版局, 316 ページ, 2024年1月, ISBN: 978-4-588-64549-5